あなたは縫々王国(ヌイヌイオウコク)をご存じですか。
私たちの暮らす世界に近くて遠い、どこかの世界の小さな島国です。
この国の住民は、ボタンの目を持つウサギのぬいぐるみ“ボタンウサギ”たち。
彼らは陽気で好奇心旺盛で、そしてちょっぴり臆病な、愛すべきいきものなのです。
さて、これからお話させていただくのは、西部の港町で帽子屋を営んでいる、若き帽子職人のボタンウサギのおはなしです。
彼の名前はラウル。
自作のシルクハットを被った、洒落た黒ウサギの青年です。
帽子屋の家庭で育ち、幼い頃から帽子に親しみ、帽子と共に成長し…
まぁとにかく帽子が大好きだった彼は、5年前に独立して、隣町に帽子屋を開業しました。
「Raoul Hatter」(ラウルの帽子屋)と名付けたそのお店は、隣は靴屋、その斜向かいは仕立屋と、帽子屋を営むにはもってこいの場所にありました。
ここ、カナキンの町は『王国の玄関』とも呼ばれる港町。友好国との交易も盛んで、商業の街として栄えています。また、多くの職人が上質な資材とお客を求めて集まる街でもあるのです。
彼の作る帽子は、仕立てが良いのは勿論のこと、必ずお似合いの帽子が見つかると評判のお店になりました。
仕事は順風満帆。
けれどもこのところ、ラウルは毎日の生活にちょっぴり物足りなさを感じていました。
そうだ、もっと大きな街に出て、僕の帽子を売ってみよう。
僕の帽子で、もっとたくさんの人が笑顔になってくれたら最高!
そう考えると、もう居ても立ってもいられないほどワクワクしてきました。
さっそく帽子の制作に取りかかりました。
晩になると、菓子職人のパーシーに手伝ってもらい、出張販売用の四輪台車をコツコツと、ひと月かけて作りました。
車のデザインはパーシーが担当しましたので、それはもう食べてしまいたくなるようなスイートなものに仕上がりましたよ。
できたての新しい帽子を車に積みながら、ラウルは胸が高鳴るのを感じていました。
とても新鮮な気分です。
出張販売の準備が整い、いよいよ出発の日を迎えました。
まだ明けやらぬ空の下、台車をそうっと店から出しました。
そして店の扉に張り紙を出しました。
『しばらくおやすみします』
見送られるのは気恥ずかしかったので、街の皆がまだ寝ているうちに出掛けることにしたのです。
街外れの『貸しウマ屋』で、ウサギウマ――私たちの世界ではロバと呼ばれておりますが――を2頭台車に繋ぎました。
よし、いくぞ!
人影のない石畳の道を、馬車を東へと進めてゆきます。
目指すは中央部。
ヌイーンブルク城の裾に広がるデルセンの街は、芸術をこよなく愛する王族のもと、昔から多くの芸術家たちが暮らしています。
美術館や劇場などが立ち並び、その中心となる中央広場には、感度の高いお客目当ての商いたちが、国中から集まってくると聞いています。
いつか行ってみたいと思っていた街です。
僕の帽子は、果たして受け入れてもらえるだろうか。
ここから目的地までは、馬車でひと月はかかるでしょうか。
期待と不安に胸をふくらませながら、ラウルは『芸術の街』を目指します。
* * * * *
さて、ところ変わってここは王国南部。
ゴブラン山脈のふもとの、小さな町です。
今日この町を旅立とうとしているボタンウサギの女の子がいました。
巣立ちの時がきたのです。
彼女の名前はリリィ。
耳元に飾った大きなピンク色の花が印象的な、お年頃の可愛い白ウサギです。
彼女はこの日が来るのを心待ちにしていました。
ボタンウサギは、ある程度の年齢になると親元を離れ、自分の住処を見つけに行くのです。
それは隣町で見つかることもあれば、遠く離れた見知らぬ街であることも。
リリィにはどうしても行ってみたい街がありました。
それは、憧れの西部の町!
そこには、見たこともないような舶来の品がたくさん集まると聞いています。そして腕のいい職人も。
ステキな舶来の生地であつらえたお洋服に、お洒落な帽子に装飾品の数々…!
想像しただけで、踊り出してしまいそうです。
行ってきます!
住むところが決まったら、手紙を出すわ。
はつらつとした声で両親に別れを告げ、大きなトランクを抱えてリリィは歩き出しました。
西部へは長い道のりになります。
駅馬車を使っても、ふた月ほどかかるでしょう。
途中、中央部を通ってゆくことになります。
『芸術の街』に興味はないけれど、中央広場にはたくさんの市場が出ると聞いています。
ステキなものが見つかるかしら。
新しい生活のはじまりにふさわしい何かと出会えるような気がして、リリィは軽やかにステップを踏みました。
* * * * *
美術館を訪れた紳士に、シルクハットはいかがかな。
観劇には、新作のオペラハットをお薦めしたい。
カナキンでは今ハンチングが人気だけれど、デルセンではどうだろう。
頭の中を帽子でいっぱいにしながら、フランネル川沿いの道を、ラウルは中央部へとやってきました。
赤の塔をくぐると、そこはデルセンの中心地、中央広場です。
たくさんのボタンウサギたちの姿があります。
パフォーマンスをする者や、それを見て楽しむ者たち。
テントを張って商売をしている者も大勢います。
広場の中心には石造りの噴水が見えます。
そして広場を取り囲むように、中央美術館や国立博物館、中央大劇場などの立派な建物が並んでいます。
その迫力にラウルは驚きましたが、ぶるっと耳を振って意識を戻しました。
似顔絵を描く商売をしている若者の隣が空いていました。
ラウルはこんにちはと挨拶をして、お隣よろしいですか?と尋ねました。
似顔絵かきは、絵筆を動かしながら無言でうなずきました。
ラウルは馬車を停め、荷台を解きました。
パステル色の、とてもおいしそうなお店が姿を現しました。
ラウルの自信作とも言える新作帽子が、まるでケーキのようにきれいに並んでいます。
広場のお客が、ラウルの店に気付いて寄ってきました。
けれど、店の側まで来ても、帽子を手に取る者はひとりもいません。
すぐに離れていってしまいます。
おかしいな…
ここのひとたちは、帽子を被らないのかな…
不安になって、ラウルはあたりを見まわしました。
けれども、帽子を被っている者も、ちゃんといるのです。
そのまま、時間は過ぎてゆきます。
からだの奥が冷たくなっていくのを、ラウルは感じました。
もしかしたら、僕の帽子は…
認めたくない言葉が頭をよぎります。
もしも認めてしまったら、この先自信を持って仕事に打ち込むことなど、きっとできなくなってしまうでしょう。
ぶるっと身震いをしたその時、「こんにちは」と可愛い声がしました。
驚いて振り返ると、ボタンの瞳を輝かせて、こちらを見つめる女の子の姿がありました。
不釣り合いなほど大きなトランクを抱えています。
「あなたは何を売っているの?」
「僕は…」
自分の声が、あまりに弱々しいことにラウルは驚いて、慌てて言い直しました。
「僕は、帽子屋です」
「まぁステキ!ぜひ帽子を見せてくださらない?」
彼女は更に瞳を輝かせました。
「喜んで!」
慌ててラウルは、並べた帽子の中から2つ3つ、若い女性が好みそうな帽子を選びました。
「まぁ!どれもステキだわ!」
彼女は順番にそれを被り、鏡を見ては嬉しそうにステップを踏みます。
「私が住んでいた南部の町には、こんなに洒落た帽子を売っているお店はなかったわ!この帽子、あなたが作ったの?」
「そうです、僕が作りました。気に入っていただけて光栄です」
ラウルは誇らしげにそう答えました。
そしてふと、ある帽子のことを思い出して、荷台を探りました。
中央部へ帽子を売りに行こうと決めた日、最初に作った帽子です。
クラウンに、薔薇色のリボンを巻きました。
「こちらはいかがでしょうか」
そっと彼女に差し出しました。
「まぁ…!」
彼女は息を吐くようにうっとりと呟き、何度も鏡に映して見つめました。
「…これだわ!この帽子、いただくわ。お幾らかしら」
「その帽子は売り物ではないのです」
彼女の瞳を見つめ、ラウルは優しく言いました。
「ですので、あなたに差し上げます」
驚きのあまり言葉が出なくて、彼女は口をパクパクとさせました。
そして、「嬉しいけど、悪いわ…」と帽子を大事そうに握ったまま、少し困った顔で言いました。
実は、薔薇色のリボンのその帽子は、踊る心のままに作ったものでしたので、あまりに心を映しすぎていて売り物にはしたくなかったのです。
けれど、彼女にとても似合うとラウルは思ったのです。
そのことを伝えるのが恥ずかしかったので、「試作品なのです」と付け加えました。
彼女は帽子をじっと見つめました。
それから彼の瞳を見つめ、にっこりと笑って言いました。
「ではお礼に、今日一日帽子売りのお手伝いをさせてください。私はリリィ。あなたは?」
「えっ、僕はラウル…」
リリィは、嬉しそうに薔薇色のリボンの帽子を被ると、口ごもる彼の返事を待たずに仕事を始めました。
「ラウルの帽子屋へ、いらっしゃいませ!」
リリィのはつらつとした声に、広場にいたひとたちが目を向けます。
「あなたにお似合いの帽子がきっと見つかる、ラウルの帽子屋!」
ひとり、ふたりと、ラウルの店へお客が集まってきます。
「芸術鑑賞にうってつけの、ラウルの帽子屋!」
さんにん、よにんと、帽子を手に取り、あれがいいこれがいいと選び始め…。
あっという間に、台車の周りはお客でいっぱいになりました。
帽子は飛ぶように売れ、ラウルは息つく暇もないほど大忙しです。
「僕の帽子をこんなに買ってもらえたの、はじめてだよ」
ラウルが驚いてそう伝えると
「売れない方が不思議だわ!こんなに素敵なのに」
彼女も驚いて答えます。
隣の似顔絵描きも心得たもので、
「新しい帽子の記念に、一枚いかがですか!」なんて、ちゃっかり便乗しています。
日が暮れるまでに、たくさんの笑顔と共に、帽子は売れていきました。
商売繁盛のお礼にと、似顔絵描きがふたりの絵を描いてくれました。
「はじめはケーキ屋かお菓子屋かと思ったよ」
彼の言葉で、ラウルはやっと売れなかったわけを悟りました。
「あなたの帽子、最高よ!」
「ありがとうリリィ。君のおかげだよ」
ふたりは微笑みながらぎゅっと握手を交わしました。
お別れの時が近づいていました。
「君はこれからどこへ行くの?」
ラウルが尋ねました。
「憧れの街へ行くの。あなたに会えて、この街も楽しかったけど」
リリィが答えました。
心なしか、少し寂しそうにみえました。
そして、ふたりは別々の道へ。
リリィは目的の地へ、ラウルは自分の店へと帰ります。
そしてラウルは、その日から帽子を作られなくなってしまうのです。
* * * * *
ラウルの帽子屋は、お休みの張り紙を剥がしてはいたものの、ひっそりとしていました。
いつもと同じ時間に掃除をし、同じ時間に開店しているのですが、なんだか様子が違います。
通りの窓から見えるのは、作業机の前でぼんやりしているラウルの姿。
お客は気付いていませんでしたが、職人仲間は――隣の靴屋も斜向かいの仕立屋も、そして菓子職人のパーシーも――彼の変化に気付いていました。
「中央部で何があったんだ?帽子は売れたんだろう?」
そんな状態が7日も続いた頃、パーシーが思いきって彼に尋ねました。
「帽子は売れたんだ。だけど…」
ラウルはぼんやりと壁を見つめたままです。
そこには似顔絵が飾られてありました。
ラウルの心は、あの日のことでいっぱいでした。
リリィと過ごしたわずかな時間が、自分にとっての理想そのものだったと、今になって気付いたのです。
けれど、彼女の行き先をラウルは知りません。
聞いておけばよかった。
いや、それよりも…
言うべき言葉があったのです。
けれども気付くのが遅すぎました。
落胆するラウルを慰めることが出来る者はいるのでしょうか。
そんな折、隣町の町長がラウルを訪ねてきました。
修理を頼んでおいたシルクハットを、受け取りに来たのです。
幸い、修理は出張前に終えてありました。
帽子を受け取った町長は、ラウルの様子がいつもと違うことに気がつきました。(ラウルのことは、子供の頃からよく知っておりましたから)
彼を元気づける言葉を探していた町長が、ふと何かを思い出しました。
「そうだラウル。君が好みそうな帽子を被った女の子が、南部から越してきたんだよ。 薔薇色のリボンの…」
店内の帽子を見廻しながら、壁の絵に目が留まりました。
「あぁこの子だよ。君の知り合いかい?」
ラウルは驚いて飛び上がりました。
「本当ですか…」
「あぁ、本当だとも。君のご両親の家と同じ並びの…」
町長が場所を説明しようとしたときには、もうラウルの姿はありませんでした。
石畳の街を、一目散に駆けてゆくラウル。
リリィに伝えたい言葉は、もう決まっています。
「僕のお嫁さんになってください」
彼女は輝く瞳で何と答えてくれるでしょうか。
きっと、あなたのご想像通りだと思いますよ。
おしまい